東洋はり灸整骨院 院長の石丸です。
本日は、私の経歴についてお話しさせていただきます。
鍼灸師を志したきっかけ
私が鍼灸師を志したのは、医師であった叔父の影響で医療関係の仕事に興味があり、さらに大学を休学して訪れたアメリカである鍼灸師に出会ったからでした。
当時私が通っていた大阪の大学は、無料で休学できる制度がありました。そこで3年間休学し、アメリカやカナダ、オーストラリアをまわったのです。
オーストラリアはワーキングホリデーで、カナダには学生ビザを取得して行きました。アメリカにわたってからは車で一周したのち、コロラド州に3ヶ月ほど滞在。そのアメリカで知り合った方のお父さまが、鍼灸師をしていたのです。
大学卒業後
その方に大いに影響を受けた私は、帰国後、大学の同級生から3年遅れで卒業し、鍼灸の師匠のもとで学ぶべく上京しました。
当時経済的にひっ迫していた私の上京は、先輩に20万円ほど借金し、ヒッチハイクを繰り返しながらのものでした。朝の5時ごろ東京についた20年以上前のことを、今でも覚えています。
すぐに不動産屋に駆け込み、私の予算で借りられるところを探してもらったあと、海外経験を活かして英会話スクールで働くことにしました。
夜間に鍼灸専門学校へ通う
英会話講師として勤めたあと、免許なしでも働けるカイロプラクティックの施術所にしばらく在籍していました。
昼間はそこで働き、夜間は鍼灸学校に通う生活を経て、鍼灸師と柔道整復師の免許を取り、今にいたります。
当時は、鍼灸の技術を学ぶため、鍼灸学校だけでは飽き足らず、勉強会にも参加していました。しかし、鍼灸だけで雇ってくれるところはなかなかありません。
歩合制のマッサージ屋で働く
免許取得後は、完全歩合制のマッサージ店で働きました。ですが、オルゴールが流れる癒しの空間を売りにしているマッサージ店であったため、はり灸を受けたがる人はいません。
そこに勤め始めて2ヶ月が過ぎたころ、身体の症状に悩んでおられる方に、「効果を感じなかったら全額返すので鍼治療をさせてほしい」とお願いしたのです。
すると、勤め始めは8万円だったお給料が、
- 3ヶ月目には、22万円
- 4ヶ月目には、44万円
- 5ヶ月目には、55万円
とどんどん増えていきました。
最終的にはいちばん多く指名を取れるようになり、「ここでこれだけできたのだから、自分でやってもいけるだろう」と自信をもてるようになったのです。
鍼灸院を開業
その後、玉川学園前で開業し、町田駅前へと移転して今に至ります。
今では、私を含めて10人以上の鍼灸師が在籍し、スタッフまで含めると17人もの人とともに施術にあたっています。
こうして考えてみると、私の鍼灸師人生の始まりは、マイナスからでした。借金をして、頼る人もいない東京ですべてをスタートさせたことが私の強みだと今では思っています。
空手家時代
1974年4月3日生まれ。大阪府高槻市出身、関西大学文学部卒業
格闘技に興味があり町田市に逆関節技を取り入れた、空手道場を知り平成14年に全日本空手道志道会に入会。
その後、全日本空手道志道会フルコンタクト空手トーナメントに出場し優勝
第71回新空手道交流大会K-3軽量級トーナメントに出場し優勝全日本空手道志道会の教えの中で身体バランスを整えるため、東洋医学のスポーツ整体を教える教室があり大変興味を持ち、専門に勉強するため呉竹鍼灸柔整専門学校に入学し、厚生労働大臣認定の国家資格、鍼灸師免許取得、同時に柔道整復師免許取得。
町田市玉川学園前にて「東洋はり灸整骨院」開業
引用:空手道志道会
私の目標
私の最終的な目標は、
- 鍼灸師の社会的地位の向上
- 鍼灸と東洋医学の認知度を上げること
にあります。
東洋医学には、強大な治癒力があります。にもかかわらず、マッサージなどを行う鍼灸師も多い現状を残念に思うこともありますが、認知度の低さを逆手にとれば、「チャンスの多い未開の地」だと捉えることもできるのです。
私は、今後も東洋医学の力を一途に信じ、力をつけて、患者さまの悩みを解決していきます。そして、東洋医学が西洋医学と同等の力を持つことが認められ、鍼灸が保険適用となるような未来をつくっていきたいと思っています。
私の経歴 YouTube動画
町田のトイカツ道場でのトレーニング風景♪
最後までご覧いただき、ありがとうございました。